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雑記帳
今日は桃の節句

2010年3月3日(水)

=豆知識=
・日本の雛祭りは、いつ頃から始まったのか歴史的には判然としないが、その起源はいくつか存在する。日本での起源は、平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存しており、もとは京都のものであったと推測される。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられる。初めは「遊びごと」であり、儀式的なものではなく其処に雛あそびの名称の由来があった。しかし平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られるようになった。

これが江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。この遊びである「雛あそび」が節句としての「雛祭り」へと変わったのは、天正年間以降のことであり、この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されている。もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代わりさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家の子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。その為、自然と華美になり、より贅沢なものへ流れた。

江戸時代初期は、形式の名残を残す立った形の「立雛」や坐った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけのものであった。その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは豪勢な金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。この享保年間、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型の雛人形が禁止された。しかし。、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行することになる。江戸時代後期には、「有職雛」と呼ばれる宮中の雅な装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。この後、江戸時代末期から明治時代にかけて雛飾りは二人だけの内裏人形から、嫁入り道具や台所の再現、内裏人形に付き従う従者人形たちや小道具、御殿や壇飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていった。

祭りの日が終わった後も雛人形を片づけずにいると結婚が遅れるという俗説は昭和初期に作られた迷信である。

この行事に食べられる食品に菱餅、雛あられ、鯛や蛤の料理(吸い物等)、ちらし寿司があり、地方によっては飲み物として白酒、生菓子の引千切がある。


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